私には建築家の師匠が三人いる。大学の恩師である大谷幸夫先生。始めての就職先で師事した故山口文像先生。そしてブラジルのボスだったジョアキム・ゲデス先生である。そのうち、日々若者たちに伝承している実際の設計手法や事務所運営などを学んだのは、ジョアキム・ゲデスからであったのだが、何と本年7月末に彼の訃報をブラジル建築家協会からのメールで受け、正直震えた。その後死因を知り愕然とした。自宅前の歩道での暴走三菱パジェロの轢き逃げ事故だというのだ。
1975年サンパウロの彼の事務所に押しかけ、日本から持参した早稲田の鈴木恂先生からの紹介状だけを頼りに無理やり就職した。ポルトガル語も現地の建築も分からぬ27歳の私を根気よく育ててくれ、10年後日本に帰国する頃には彼の事務所のすべてを任されていた。建築とポルトガル語の大師匠である。その後のブラジル訪問の際にはその都度暖かく迎えてくれていた。彼が元気なうちに、私が彼を日本に招待して恩返しをしたいと考えていたが、叶わぬこととなってしまったのが悔やまれる。享年76歳であった。
現地ではマスコミも大きくとりあげ、追悼の意が報じられているようだ。その中から、ジョアキム・ゲデス研究の第一人者であるモニカ・ジュンケイラ・デ・カマルゴによる追悼文を本人の了解を得て翻訳したので、いくつかの映像とともにここに発表する。
2009年1月5日 南條洋雄
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ブラジル建築は偉大なる思想家を失った。
自身の考えを示すことに恐れを知らず、けっして論戦を逃れることがなかった。それどころか常に中心的な挑発者であった。建築家ジョアキム・マノエル・ゲデス・ソブリーニョ教授が27/07/08逝去した。1932年生まれ、1954年州立サンパウロ大学建築学科第三期卒業。1958年には既に同大学で教鞭をとり、2002年に正教授として退官した。ジョアキム・ゲデスはブラジル現代建築の立役者の一人であった。
1950年代から創作開始し500余の作品とあらゆる分野と縮尺にわたる計画を重ねあげてきたが、それら都市、建築、学校、病院、住宅、リフォームそしてオブジェは一貫した厳格さで実践されている。既に偉大な寄与をしたが、今なお国内の舞台に対するサンパウロ・プロダクツの確立にとっては新鮮である。すなわち、教育および建築的実践を通して、建築とユルバニズムの発展にアクティブに参画し続けてきた。固有かつ独創的創作者として、彼の主たる力点は、それぞれの方法で創られた空間を自分のものとすることを可能ならしめるという意味で、人間の活動をすべからく実現するための可能性、柔軟性と可変性を最大限追求した空間創造に集中していた。
批判の矢面にたつことを恐れず、既定のソリューションから開放され、ひとつひとつのプロジェクトを未知の経験として扱ってきた。その方法は、明確な計画性や段階性などなく事を始め、ただ解決すべき課題を、ユーザーとマテリアルと景観の必要性にのみ従順に外郭を描き出す方法であり、それがひとつひとつの作品にその固有の様々な視点に起因するところの、固有の発明性(発見性)を与えるものである。
彼の作品群の中に、同時期に計画されていたにもかかわらず特別な差異のあるプロジェクトの存在を認めることができる。彼いわく「固有かつ理路を持つことのできるはず、とはいえ絶対的でも自立的でもないところの、建築家達に与えられたパーソナルな創造する力を超えて、そこには社会的問題やテクノロジー、経済、諸状況に対する使命が存在し、それらが使用すべき素材と創造する行為の本質を既定するのである。」分解と結合との間のひとつの緊密な関係の結果として、彼の作品は、ひとつの真実に対する接近として形成されてきたし、その結果が美をもたらすと彼は信じてきた。
際立って批評家であり、とりわけ自己批評家であり、哲学的取り組みを貫く比類なき判断力をもって、彼は常に疑うことと尋問することからスタートするのであった。それらは彼にとって自らの過ちや推移を認めつつも、考察するための手段であった。「疑問があればあるほど否定し、批判し、破壊することで、私は真の知識=真実、対象の本質に近づいていると感じる。」得られた結論の優秀性を徹底的に再疑問視して、さらに新たな経験をすることこそが、完璧かつ確定的たる結論に至らしめ、それらの作品を恒常的に模索状態に置くことを可能にしてきた。有益な実務を達成するための理論を実践する必要性を理解した一世代の一員として、ゲデスは行動のための永続的研究のかたちとして、実務において理論を実践するという道を選んだのであった。
彼の作品のうち、クーニャ・リマ邸(1958)、ペレイラ邸(1967)、リリアーナ・ゲデス邸(1968)、アンナ・マリアーニ邸(1976)そして、その実践にあたって公的使命と重要性に対する深い認識を映し出しているところのカライバ都市設計(1977)、それらはブラジルの合理主義建築の規範となった。ゲデスは建築というものを人生のひとつの解答と信じ、全ての可能性を引き出すことのできる空間を創造し続けた。
今日、我が国における主要な建築論壇において、彼の参画は常に彼の人物像とその研ぎ澄まされた批判精神ゆえに鮮烈であり、よって彼の不在を我々は永遠に悲しむでしょう。
モニカ・ジュンケイラ・デ・カマルゴ記