ブラジリアの都市計画と建築

ENCONTROS LUSOFONOS 第12号 1p~9p掲載
上智大学イベロアメリカ研究所 2010年9月30日発行

はじめに

私は建築家で主に建物の設計をしています。1975年27歳の時にブラジルに移住し、10年間サンパウロの設計事務所に勤務しブラジル各地のプロジェクトに関わりました。その間、ブラジルの建築ライセンス取得のためブラジリア大学で卒業資格をとろうした経緯があり、ブラジリアには深い関わりがあります。

   学生時代、私は1971年卒業ですが、ブラジリアというのは私たち都市計画・建築を学ぶものにとって、ル・コルビジェの唱える理想都市が実現した事例ということで教室で学んだわけです。ですがその当時すでに、コルビジェ教科書のお手本通りに造ったにもかかわらず、世紀の失敗作、参考としてはならぬ批判の対象として教えられていました。

   私は1975年に初めて現地に行ってみて、こうした悪評とは違う素晴らしいブラジリアの実態に驚きました。かつ10年間のブラジル滞在で社会経済の特殊性やブラジル人の生活観などが理解できるようになり、ブラジリアという都市をまったく別の見方で評価できるようになりました。それ以降、間違った先入観でブラジリアバッシングする日本人に対して、ブラジリアを正しく理解してもらうようにと、いろいろ書いたり、話したりしております。今日も良い機会であると感謝します。

ブラジリア遷都の歴史と意味

  ブラジリアという都市は一国の新首都として建設されたわけであり、この都市を理解し評価するには、遷都論から入る必要があります。日本でも一昔前、遷都論が議論された時期があり、私も国土庁主催の会合でブラジリアを講義したことがありますが、最近はまったく取り上げられなくなりました。今日はブラジリア遷都50周年という節目にあたり、日本でも首都機能移転をブラジリアを参考にきちっと考えるべきだ、という立場で話します。ブラジリアがなぜ誕生したか。クビチェック大統領がいきなり思いつきで作ったように日本では言われていますが、間違いで、実際はブラジルの歴史そのものなのです。

写真1 新首都議論のはじまり

  大航海時代リスボンから新大陸を目指して旅立った人たちがいて、西暦1500年に西洋人がブラジルを発見する。そして1549年にはポルトガルの総督府がサルバドールにつくられた。サルバドールの街並みはリスボンに非常に似ています。当時のブラジルの中心がサルバドール。言ってみれば最初の首都がサルバドールと言えます。

   その後1761年マルケス・デ・ポンバウ、1792年チラデンテス、こういった歴史上の人物、日本で言うなら織田信長、豊臣秀吉といった人々が、すでに内陸部プラナウト高原にこの国の中心を移すのだと言う議論をしているのです。(写真1)当時の場所は現在のブラジリアからはちょっと外れていますが、この頃からずっと議論されている。そして時は過ぎ、スペインに追われたポルトガル政府が逃げて来て、リオネジャネイロにポルトガルの首都が移る。そして、帰国する時に皇太子ドン・ペドロがおいて行かれて独立する訳です。それが高々1815年。この間遷都というのは国民全体の視野に入っている話だったわけです。

写真2 沿岸都市とブラジリアの距離

   なぜかというとそれまでの開発は沿岸部に限られていた。そこでこの国の繁栄はアマゾンを含めた奥地開発にあるという考え方から、沿岸部の全ての都市から概ね1000kmの地点を首都とするのがこの国の遠い将来のあるべき姿だと、数百年かけて議論してきて、ブラジリアと言うまちが作られて来ているわけです。これを日本人は学ぶべきだ。(写真2)

ブラジリア建設 

衝撃的ですがこれがコンペの図面です。ルシオ・コスタの自筆です。今このレベルのコンペならCGなどを駆使したプレゼンテーションで競い合って、誰が一番良いのか決めるのですが、アメリカから帰ってくる船の中でサクッとフリーハンドで書いた物だそうです。(写真3)

写真3 コンペ案(マスタープラン)
写真4 コンペ案(二本の線)
写真5 三権広場の突貫工事 

  2本の線で十字から始まって、これが展開されて、これが最終図面です。この子供のお絵描きみたいな、これでもってして1等当選なのですね。それに基づいて突貫工事が始まります。朝日が昇るのと夕日が沈むのが両方地平線に見える。そんな大地にどんな都市をつくるのか。その答えを示したのが二本の線なのです。(写真4)(写真5)
   ブラジリアの地図では軸が南北に向いているように思われますが、実際は東西に向いています。周辺はセラード地帯ですので、ほとんど植物が育ちません。ブラジル人は国家の大きな目的の為にそんな荒野へ戦いを挑んできた訳ですね。こうした自然条件なども加味してこの都市を評価しないといけないと思います。

連邦区と衛星都市群

写真6 衛星都市群と連邦区 

ブラジリアに対する日本人のイメージは、人が住みにくい車優先の街となっていますが、正しくないと私は思います。よく言われるのが「ブラジリアは住みにくい。だから、人は周辺にスラムを作り、そこで人間らしく住んでいる。」これはひどい事実誤認であり、衛星都市すべてがスラムではなく計画都市なのです。当時のヨーロッパのニュータウンを作る時の理論がこれらの衛星都市で試されています。面白いのは、衛星都市ひとつひとつが違う顔をしています。なぜかと言うと、道路や街区設計、土地利用や用途規制など、都市計画の様々なアイデアが全部試されているのです。だから、基盤整備はとてもよく出来ていて、都市としての発展のポテンシャルがある。残念なのは、ブラジルが経済的には豊かではないので、建っている建物がやや祖末ですから、日本人からみるとスラムと言われるのだけど、とんでもない誤解で、都市としては立派なインフラが整備されているのです。(写真6)

写真7 プラーノ・ピロット

   それから、ブラジリアというと通常は連邦区(ディストリット・フェデラル)をさしますが、それは衛星都市群を含む大きなエリアであり、コンペで選ばれたのは飛行機型で有名なプラーノ・ピロットと呼ばれる小さな地区です。これはいわゆる首都機能の中枢部であって、いわば霞ヶ関なのですね。今日連邦区は人口300万を超えました。それくらいの巨大経済圏になってしまいました。にもかかわらず、連邦区では土地利用が都市計画的に誘導されていて、都市計画が破綻している東京とは好対照です。すべてが完璧とは言いませんが、近代都市の苦悩をこういう手法を持ってすれば解決するといったのは、実は全部ヨーロッパ人なのですね。それをブラジル人とインド人が真似をした。

   地図に明らかなように、街の仕組みが目で見てわかりやすく表現されていることからも、非常に斬新です。交通体系も人間の解剖図のように実に秩序立って機能するように、生物学のように組み込まれたシステムで、本当に理想的な都市設計案なのです。(写真7)

オスカー・ニーマイヤーとルシオ・コスタ 

  このように作られたブラジリアの建築では、ニーマイヤーばかりが目立って知られていますが、ニーマイヤーの先生がルシオ・コスタであり、リオデジャネイロの芸術学校の学長だった人です。コンペでは子弟が逆転し、審査員が生徒のニーマイヤーでエントリーしたのが先生のルシオ・コスタでした。ちなみに私の先生のジョアキム・ゲデスもエントリーして負けていますが、サンパウロやリオの著名な建築家がこぞってエントリーした大きなコンペだったのですね。ですからブラジリアのマスタープランはルシオ・コスタの案なのですが、そこに建てられている建物は、ほぼすべてニーマイヤーの設計なのです。

写真8 オスカー・ニーマイヤー
写真9 ルシオ・コスタ

   今日でもいまだにニーマイヤーがブラジリアの建物を設計し続けているのですが、それは若干問題があると私は思います。多様で魅力的な都市を良しとする今日的な考えからすれば、一人の建築家がすべての建物をデザインすることなどあり得ないという意味ですが。それはさておき、初期の建物はすべてオスカー・ニーマイヤーの設計なのです。ルシオ・コスタの設計はテレビ塔だけですね。(写真8)(真9)

ニーマイヤー建築の数々

写真10 国会議事堂

  代表的な建物を見てみましょう。ニーマイヤー芸術の優れた造形美がブラジリアの多くの建築に見られます。国会議事堂もそのひとつです。おそらく日本の方は誤解していると思いますが、この上下のお椀型は単に飾りだって知っていましたか。ニーマイヤーの建築のひとつの典型ですが、本体は見えない地下にあって、飾りがこのように自由造形されるというのがあります。これら二つのお椀型は上院下院の上におかれている屋根飾りであり、議事堂そのものは地下にあります。(写真10)

  多くの建物がこの方式ですが、実はこれはすごく優れていてサステイナブル建築でもあるわけです。なぜならブラジリアは暑いですし、寒さもありますし、乾季も過酷です。というわけで涼しいし室内気候が安定している地下室を積極的に使うわけです。それにより空調に頼らない建物が可能なわけですね。形だけ見ると奇抜ですが、周りには水盤を張り気化熱で冷気を取り入れるなど、限りなく考え抜かれた建物なのです。 

写真11 省庁ビル群

 省庁群も首都機能という意味を考えた時にとても重要だと思います。徹底した効率追及という側面からです。国家の中枢機能のすべてが機能的に、また将来展開も視野に見事に整然と整備されています。首都機能の基盤に何が求められるかを考えて極限まで追求すると、ひとつの答えとしてブラジリアというのが出てくるだろうと思うわけです。その機能効率のすべてが無い為に東京という日本の首都がどれだけ経済損失をしているかを考える必要を、ブラジリアをみると痛感します。(写真11)

写真12 イタマラティ宮殿

 迎賓館にあたるイタマラティ宮殿も、その美しい造形は単なる屋根架構の造形であり、本体部分はその中の四角い箱なわけです。大統領官邸では主たる部屋はすべて地下にあるので、見えているところはすべて飾りの部分ですね。(写真12)

写真13 カテドラル

 なんといってもカテドラルは典型ですね。見えているあの奇抜な形は屋根にすぎなくて、床はスロープの先の地下にある訳です。これも空調はなく、屋根は全部ガラス張りなのに、エアコンなしでミサができてしまうんですから、これはすごいアイデアと言わざるを得ません。外周は全部水盤になっていて、気化熱が冷気をつくり、自然換気でその冷気が天井を昇っていくという作りになっています。(写真13)

写真14 軍隊パレード

   忘れてならないのは、ブラジリアというのは首都なわけで、今でこそ民政ですけど、出来た頃から長い間軍事政権でしたから、軍隊というものの存在が大きく、また首都機能上も重要なわけです。軍事政権であれなかれ国防は重要な首都機能の一つですね。ですから様々な軍事的なパレードなども頻繁に行われる。それも首都としての一つの機能ですね。こうした面もこの都市のマスタープランに十分反映されています。(写真14)

生活都市ブラジリア 

写真15 コンペ案(近隣住区)

   以上が首都機能の部分なのですが、生活都市としては非常に評判が悪いですね。モニュメンタルでシンボリックなのは評価されても、あんなところに住めるかという評価です。でも私は、こんなすばらしい住みやすい街は無いと評価しています。ただし、日本人に住みやすいかと言うと、それはわからないですが、ブラジル人にとって住みやすいかと考えた時、私も10年住んでいましたから、非常に住みやすいと思います。
   これはコンペの時のルシオ・コスタのスケッチですが、ヴィジニャンサと訳されている近隣住区というヨーロッパの考えが採用されています。そういったものが緻密に考えられて実現した訳ですね。(写真15)

   これは道路システムのスケッチですが、これ全部ル・コルビジェの理論です。フリーウェイからすこしずつヒエラルキーが下がって行って、だんだんローカルな街路へと落として行って、その間どこにも信号はなし。街区に入るとまずここに近隣センターがあって、11棟の高層住宅が並ぶスーパーブロックに入る。住宅の1階はピロティ。住区の中はすべてクルドサック(行き止まり道路)なので一切車が通り抜けられない。こうして、完全車優先の世界と、完全人優先の世界とが組み合わされた都市構造でコルビジェの理論なのですが、日本では車ばっかりというところしか報道しないから誤認されている。日本の評論家でこういうところまで見る人はいないのです。私は友達がいっぱいいますから、泊まったりしているとなるほどと思ったりする事があります。 

写真16 緑溢れる住宅地

  砂漠のように埃だらけであんなまちに住めるかと、出来て間もなく行った人は言うのですが、出来たころはそうだったけど、今行ってみれば何百万という植樹のすごさが圧倒的で、森に埋め尽くされています。砂漠の中のオアシスであって、本当に大木がうっそうとしており、住宅地の緑の多さは南米一といわれています。商業も最初のプランには問題があって、近隣センターにある店舗棟には問題があったけど、今はそれがどんどん改善されてきています。(写真16)

   次に生活面でみますと、治安、教育、福祉が中南米の一般の都市と比べるとブラジリアと言うのは特別な街ですね。抜きん出て行き届いている。これはブラジリア大学のキャンパスですが、ルシオ・コスタのスケッチなんかが壁にあって、こういう環境の中で、学生も街が出来た謂われなんかを肌で感じながら育って行きます。次に宗教ですが、各街区に色々な宗教施設があります。浄土真宗もあるのですよね。これだけは大問題です。近隣住区論の盲点でもありますが、1丁目に住んだ人は全員カソリック、2丁目に住んだ人は全員アラブ、3丁目に住んだ人は浄土真宗とは、いかない訳で、その辺は都市計画の画一的にすぎたところであるわけです。

  こうした点も含め、いろんな意味でいろんな物が修正され熟成して、住みやすい街になって来ていると言えると思います。それからレジャー面も充実しており、安心して遊び楽しめるリッチな都市になっているんじゃないでしょうか。様々なクラブが、湖水沿いにあったり、生活が謳歌されているのがブラジリアです。

ブラジリアの意義

  最後になりましたが、私にとってブラジリアの意義を述べさせていただきます。

   第一に、純化した首都機能がもたらす効率の良い都市構造の良い例を、ブラジリアが示しているということです。例えば、日本にアメリカの大統領をお迎えするとしたら何がおきますか。成田飛行場につく、あるいは、羽田に着いたとしましょう。すべての交通をストップして、厳戒態勢の元に1時間かかってどこへお連れするのですか、といったたぐいの話です。ブラジリアでは、飛行場へつけばノンストップで大統領官邸まで10分で行きますからね。何の為に作った街かというのを忘れて、自分が住む街というので評価すると、日本人は色々言いたくなるでしょうけど、それは意味がない。ブラジリアは何にもまして首都だということ、首都というものはこうあるべきだということ、首都は司法・行政・立法の三権と国防の拠点だということ、そういう意味でブラジリアを語る時、首都がうまく機能しているというところを評価してあげないとかわいそうだということです。

  第二に都市計画上の意義です。コルビジェは既に過去の人ですが、しかし、日本のすべての都市の理論も、世界中の理論も元を正せば、コルビジェの近代都市計画がベースになっています。しかしながら、そこには先ほど述べた宗教の問題や商店街の問題などがありますが、でも、だから作らなければ良かったではなく、それが分かったのだから直せばいいだけの話だということです。ブラジリアの人達は自分で良い街だと思っているけど、良くないものもあるのを理解しています。それを、今2世、3世たちが修正している。そういう意味で、都市計画史上の生きた標本が実在するというのはすごいことであり、私は価値ある物としてブラジリアを評価している。

   第三に、先ほども触れましたが、中南米の街の実態、経済とか治安とか教育とか、あるいはスラムとか、そういった問題があるのが中南米の実態であり、そこにブラジリアが特異な存在としてあるという認識の問題をあげたい。中南米のこれからの都市モデルを考える上で、大切な見方なのではないかと思うわけです。

   第四に、建築・都市とそれらが市民にどう捉えられているかという一体感の問題です。日本ではおよそ感じない。建物の評価なんて誰もしてない。不動産の価値以外は、ほとんど意味をもたない。作っては壊し、作っては壊し、出来た建物がどんなに醜悪でも色彩氾濫でも、洗濯物だらけでごちゃごちゃでも平気。そのような街の風情はスラムなら仕方ないが、普通の街としてブラジル人にとっては考えられないことですね。そういう一体感がブラジリアからは感じられます。

写真17 エスパッソ・ルシオ・コスタの模型

   そして最後に、ブラジリア人にとっての誇りの問題ですが、これを日本人は完全に失っていますね。世界文化遺産ですが日本もいくつかエントリーしてますが、ブラジリアはとうの昔に世界文化遺産に登録されました。世界で一番若い世界文化遺産といわれています。指定されるとすぐにお祝いとして、ルシオ・コスタ・スペースが三権広場の下に作られました。プラーノ・ピロットの巨大な模型が置かれています。(写真17)この模型に原設計を刻印し、永久にこの形を変えない。保存し続ける。そういうブラジル人の意思表示なのです。作ってすぐ壊す日本とはえらい違いですね。でも、50年しか経っていない建物を文化遺産にして、金輪際変えないと言うのも、ブラジル人にとっての自負というか、プライドというか、すごいなと思います。ルシオ・コスタは96歳でなくなりました。オスカー・ニーマイヤーは健在です。102歳になりました。100歳の時に何度目かの入籍をしています。今でも現役として設計をしています。

写真18 クビチェックメモリアル

   クビチェック大統領はサンパウロ郊外で壮絶な自動車事故で即死しましたが、その後に、オスカー・ニーマイヤーの設計でクビチェックメモリアルが作られました。ブラジリア都市軸上の高い丘のところに建っています。手を挙げていますね。彼が今どう思っているか知るすべもありませんが50年経ったと言う事でこの画像を最後にしました。ご清聴ありがとうございました。(写真18)