いま、なぜブラジリア

季刊大林NO.44  Brasilia/ブラジリア 1998年刊

1、知られざる国ブラジル
 ワールドカップ開催の本年、優勝最有力候補としてブラジルの名が頻繁に登場している。しかしブラジルという国はやはり日本からは遠い存在。この国の実態は意外なほど知られていない。 
 一昔前まで記憶に残るブラジル人といえば、プロレスのボボ・ブラジル、サッカーの王様ペレ、ボサノバのセルジオ・メンデスといったところだった。最近では、F1のアイルトン・セーナ、歌手のマルシア、サッカーのジーコなどが加わり多彩になってきた。
 建築の世界では、ルシオ・コスタとオスカー・ニーマイヤーという2人の建築家の名前を知る世代はあろうが、2人とも今なお存命であることは知られていない。本書の企画で、95才を迎えたルシオ・コスタと建築家槙文彦氏との対談を読まれて驚かれる方が多いと思う。
 わが国にも海外移住政策があり、現在も続いていることは意外と知られていない。農業従事者を中心に多くの日本人が海を渡り地球の裏側のブラジルに移住していった。第一回のブラジル移民は1906年、既に90年という歴史があり、現地では3世、4世時代を迎え、日系人の人口は近年の駐在員等も加えると百万人を超える海外最大の日系人の住む国である。
 こうした日系移民の子孫が、最近では出稼ぎとして日本の各地に戻ってきていることは皮肉である。各種工場や寝たきり老人の付き添い婦など、様々な分野で日本の若者達が嫌ういわゆる3Kと言われる仕事に、日本人の風貌をもった勤勉な労働力として重宝がられている。数年前、バブルの絶頂期にそのピークを迎え、その数現在?十万人と言われている。
 また、Jリーグの多くのチームでブラジル選手が活躍しており、若者たちの間でサッカーを通してブラジルという国が身近に感じられるようになってきた。さらにF1のアイルトン・セーナのあの劇的な事故死もブラジルの知名度を上げた最近の出来事として忘れられない。


2、私とブラジル
 私がブラジルに渡ったのは1975年、今から23年前のことである。親しい仲間にその決意を述べると、皆一様に困惑した。なぜブラジルなんかにいくのか、せめて欧米ならわかるが、というのが、私への心遣い故の素直な進言であったと思う。
 当時は現在の国際協力事業団(JAICA)の前進、海外移住事業団が日本人の移住斡旋を行っていたが、その相談員も私の申し出には当惑していた。実際、建築設計という職種では対応でず、特殊旋盤工や鉄筋工といった建設技能職しか扱っていなかった。
 途方に暮れていた私に貴重なアドバイスをして下さったのは、故山口文象、槙文彦、鈴木洵の三建築家であった。
 当時お世話になっていたRIAの山口文象先生からは、バウハウスにおられた時の貴重な体験談も交え、多くの具体的なアドバイスを頂いた。言葉や習慣の違いなどから異国での心細さに負けて、安易に日系社会に身を寄せることなく、堂々と現地社会に体当たりせよとのご忠言は、異国での私の生活に絶対的な影響を与えた。また国力で判断するのではなく、発展途上国にも国際社会に通用する素晴らしい優秀な個人がいるから、求めてそういった方々とつき合いなさいというアドバイスを守り通したのだった。
 当時、ブラジリアの日本大使館の設計を手がけられた槙先生には、大学で講義を受けた親近感で、当時のブラジル建築界に関していろいろと教えていただいた。その場で早稲田の鈴木洵先生にご連絡いただき、そのご縁で鈴木先生の紹介状を手に、ジョアキン・ゲデス事務所の所員になることができたのだった。
 今回の取材では、竣工後2?年ぶりに槙先生をブラジリアの日本大使館にご案内する事ができたが、当時雑誌でこの作品を知らなければ、槙先生にもご相談しておらず鈴木先生にもお会いしてないわけで、私のブラジル経験は全く違ったものになっていたはずである。こうして私は、1985年帰国するまで10年間の理想的なブラジル滞在を実践することができたわけだ。


3、ブラジルの建築界
 ブラジリア遷都を実現した大統領ジュセリーノ・クビチェックと建築家オスカー・ニーマイヤーとの交友関係は、日本の建築界の常識を越えたものであるが、そこに両国の建築家の社会的位置づけの決定的な違いをみることができる。
 J・クビチェックに限らずブラジルの政治家は、ブレーンの一人として必ず有能な建築家を従えている。ここで言う建築家とは日本の一級建築士とは全く異なる。政治家の役割がより豊かな国民生活を実現することであり、環境、都市、建築は常に最大の政治課題であるから、建築家のブレーンが政治家にとって不可欠なのである。それに応えねばならぬ建築家の日常は限りなくグローバルであり、社会的かつ政治的である。大学教育や法制度が原因で、多くの建築家が主に技術的諸問題の処理に追われるというわが国の現実とは対照的であり、ブラジルの建築家は建築や都市の創造を通して、社会、国家に大きなかかわりを持っている。
 最近では、建築家自らが政治家となるケースもみられ、リオ・デ・ジャネイロ市の現市長は建築家ルイス・パウロ・コンジ、エコロジカルなまちづくりで有名なクリチーバの元市長である建築家ジャイメ・レーネルは現在パラナ州知事を務めており、次期大統領選に出馬の噂もあるくらいである。
 私のブラジルでの師匠である先述のジョアキム・ゲデスもサンパウロ州立大学教授であり、事務所での作家活動に加え、大きな工場オーナーでもあり、またいくつもの農場経営をてがける実業家であり、政治、経済、文化のあらゆる分野に深く関わっている典型的なブラジル型建築家の一人である。事務所ではきめの細かい住宅設計から、いくつもの新都市の計画から設計、そして日本的な意味での都市計画策定までを同時に手がけている。


4、ブラジル風生活
 金融破綻を契機に日本型社会構造が揺れ、官僚主導の社会システムからの脱皮がさけばれている。学校ではいじめ、登校拒否はいつのまにか生徒の教師への殺傷事件へと進んでしまった。戦後の経済成長は健全な家庭生活の実現への手段であったはずが、あらぬ方向へと進んできてしまったようだ。
 ワイドショウがこうした問題を連日とりあげているとき、ブラジルのお茶の間では、慢性的な経済、政治破綻とミゼリアスな貧困階級の諸問題をとりあげている。社会システムにおいても、家族システムにおいても、両国は対照的である。
 日本が高度に発達した大きくなりすぎた社会システムの疲弊と、個人や家庭生活の崩壊に悩まされている時、ブラジルは近代的社会システムの構築に手をこまねいている状況が長引くにつれ、徹底した個人主義、家族第一主義で自らの生活を守る知恵を身につけてきたとも言える。
 国家はどうみてもうまく言っているとは思えないが、個人生活は意外に豊かであり、問題は社会が幇助すべき社会的弱者が、脆弱な国家ゆえに切り捨てられる傾向にあることがブラジルの慢性的な国家的課題なのだ。根本的な処方箋は経済にあるというのが国民的コンセンサスではあるが、現状では経済発展の恩恵は一部の富裕層に集中しているといわざるを得ない。
 それでもあのカーニバルやサッカーのワールドカップの輝きが保てているのは、楽天的なラテン気質の人生観、恵まれた自然条件、そしてカソリック信教の重みである事を彼らとの生活体験から実感した。
 ブラジル人は総じて生活を全てに優先して考える国民であり、日本人と決定的に異なる。会社の為の転勤より退職を選び、単身赴任など全く考えられない。逆に企業も社員の永久雇用など全く補償しないし、リストラは恒常的で社会問題にはならず、まるで労使の了解があるかの如しである。
 仕事が終われば家庭に直行するのが常識だし、会合は夫婦同伴が鉄則であるから、サラリーマンのみを対象とした繁華街は成立しない。安息日に家族を無視しての休日出勤やゴルフなどあり得ないし、自分の人生や家族の幸せのために仕事をするのだという意識がはっきりしている。
 様々な民族が混在し多様な価値観が同居する社会では、国家が国民生活の規範を示し、かつ補償する事を期待するよりも、個人主義に徹し、家族あるいは民族という単位で生活を防衛して行くという考え方が主流となり、単一民族の日本人と対照的である。


5、ブラジリア
 そんな個人主義の国民が広大な国土に分散し、一見バラバラな国民が、であるがゆえに逆に国家的帰属感を強く求める場面がいくつかある。その代表的なものがサッカーのワールドカップである。国歌、国旗をあれほどまでに愛する国民を、昨今の日本人の風潮からみるとうらやましくさえ思える。オリンピックであれ、コンクールであれ、日頃バラバラな国民が、ナショナルチームが登場したとたん熱狂的なブラジル国民に早変わりするのである。
 サンバの踊りとカーニバルもブラジル国民が一つとなる大きなイベントである。ブラジル人はこのカーニバルでの快楽のために一年間のつらい労働を耐えているのだと言う人もいるくらいである。サッカーもカーニバルも、特大のお祭りなのであって、日頃からパーティーが好きな陽気なブラジル人にとっての集大成なのである。
 ブラジリアの建設はこんなブラジル人にとって、もう一つの国家への帰属感の象徴としてとらえることができる。こうした発想は、わが国ではともすればかつての全体主義につながる危険な発想とらえがちであるが、21世紀には世界を凌駕する大国ブラジルとなることを信じて疑わないブラジル人にとっては、国民的なコンセンサスに基づく、多少茶化して言うならば、ワールドカップ、カーニバルにつながる一大イベントであったともいえる。
 しかしこのイベントは、百余年を費やした綿密な国民的議論を経た、実体的な経済効果と政治効果を伴う、ひと味違うイベントであったのだ。ジュセリーノ・クビチェックという優れた指導者と、当時の世界の最先端をきわめたル・コルビジェの都市理論を忠実に実践し得た、ルシオ・コスタとオスカー・ニーマイヤーに代表される若き建築家達の強靭な努力によって、ブラジリアはつくられたのだ。
 実践されることなく綴じられつつあったル・コルビジェの理論は、強大なブラジルという国土のポテンシャル故に教科書通りに竣工した。それが故にいくつかの矛盾を後世に残すことになる。
 欧米人は建設直後のブラジリアを訪れた時、彼ら自身が成し得なかった、そして今後も絶対成し得ないと気づいていた未来の理想都市が、南米大陸の真ん中に、ブラジル人によって実現されたという事実をどう感じたであろうか。
 素直にブラジル人の勇気と骨肉の努力をたたえることも、前向きのアドバイスを残すこともなく、新大陸に誕生した欧米人自信の理論、理念の卵を、ブラジル人と共に暖かくはぐくみ、より完成された理想都市へと孵化しようともしなかった。
 都市というものは一つの生命体であり、人々が何世紀もかけて創り、改め、熟成していくものであることを知り尽くしていたはずの欧米人は、わずか数年後のブラジリアに降り立ち、わずか数日の滞在で、まだまだ建設途中にあったこの町の粗探しに奔走した。不備があるとしても、それは彼らの、いや20世紀の最新都市計画理論の結果であるにも関わらず、その事には触れずにブラジリア・バッシングを世界中に向けて発信したのだった。
 一番損をしたのは欧米人自身である。なぜなら、ブラジル人が果敢にも取り組んだ、ブラジリアという近代都市計画の唯一の標本を、彼らと共に追跡し続けることを放棄したからである。
 ブラジリアは生きている。ブラジリア生まれの若者達にとって、他国のジャーナリストがどんなにブラジリアの悪口をまくしたて続けようが、この町が彼らの基準であり故郷なのである。すでにブラジリア生まれ三世の時代になりつつある。彼らにとって建築家ルシオ・コスタは、故郷のこの町の産みの親であり、祖父と認知されているという。ブラジル屈指の高い教育水準が達成され、ブラジリア生まれの賢者たちが着々とこの町を修繕している。
 1987年、この町はユネスコの世界文化遺産として正式に登録され、ルシオ・コスタによる中心地区、いわゆるプラーノ・ピロットは、永久に今の姿で保全されることになった。この町を熟成していくのは、その権利を持つのは、ブラジル人、とりわけブラジリア人であって、バッシングに奔走した欧米人ではない。
 ブラジリアはブラジル人によってつくられたブラジル人(の生活)の為の都市である。同じような都市が他国に創られることを望むことは意味がない。ましてや地球の裏側の日本にこのような町が望まれるはずもない。
 日本で首都機能移転が議論されている。おそらくわが国で最初で最後の新都市(独立した都市)の建設になるであろう。われわれはその拠り所となる理念を持っているのであろうか。いまさらル・コルビジェの教科書を開くわけでもないだろうし、戦後続けてきたようにアメリカの様々な都市開発のつまみ食いで、新首都を創るわけでもなかろう。
 ブラジリア研究が最近盛んである。ブラジリアから何を学ぼうというのか。誕生して40年を経たブラジリアの近報に、これまでのバッシング報道とは異なる何かをわれわれが感じ始めているからに違いない。
 過去の誤解を一旦白紙に戻して、まず事実を正しく認識する必要がある。生きた標本を謙虚にしっかりと見つめてみたい。表層的ではなく、人々の生活や背景となっている歴史や自然環境、社会情勢なども踏まえて。
 こうしてこの企画がスタートした。本書がこれまでのブラジリア報道とは幾重にも異なり、都市や建築のありかた、そこに生活する人々の幸福と都市計画や都市行政の果たすべき役割等について、また21世紀の新たなる都市論へのきっかけとして、示唆的であることを期待するものである。