まちづくりと建築家

JIAニュース 1999年4月号/p.6~7掲載

1、「まちづくり」の今日的意味
 今世紀、建築家が都市を語ってきた。ハワードのガーデンシティやコルビジェの輝く都市をはじめ、我が国でも多くの建築家が都市を語ってきた。建築学科のカリキュラムに都市計画は不可欠になり、社会学系、環境系、情報工学系など様々な分野が参入し、都市を専門に扱う学科も増えてきた。
 戦後50年を振り返ると、戦災復興に代表されるような「都市をより良くつくる」ための都市論から、「より豊かに都市を享受する」ための都市論の段階を経て、90年代は「都市に生きながらえる」ための都市論に大きく変化した。
 都市計画の専門領域化が進み、一方では建築家の都市離れが進行している。アカデミズムのこの流れは、たちまちにして行政へと波及し、さらに市民運動をも巻き込んでいった。近年は、環境共生と高齢化社会という新たな課題が一層こうした動きに拍車をかけている。そしていつしか「都市計画」という官僚的な臭いのする言葉に変わって、「まちづくり」というあたらしい概念が定着し、すぐれたまちづくりを語れることが政治家の必須条件となってきた。
 「まちづくり」とは重宝なことばだ。建築、都市、自然すべての環境が対象であり、建設、教育文化、医療福祉、経済、産業振興といったあらゆる行政施策にも波及する。さらに「ものをつくる」だけではなく、情報を開示し、共に考えるといった意志決定のプロセスが問われ、「ひとをつくりそだて」社会や人間関係のあり方を再構築することをも意味する。

2、脱皮できない建築家像
 ところで如何なる都市であってもその実体は建築群であり、それらの建築物の多くが建築家の手によって都市に登場する。しかしいま、社会は建築家が建築を都市に送り出すだけでは納得しない。「まちづくり」が都市の新しい手法となった今日、社会は建築家に「まちづくり」にも積極的にかかわることを望んでいるはずだ。いや、建築家抜きで「まちづくり」を進めようとするのかもしれない。
 建築家が「まちづくり」に関わらんとするとき、何をなせばよいのか?そもそもどのような関わり方、さらには業務が存在するのだろうか?環境、保存、ゴミといった問題で、個人としてのボランティア的な地域活動を重視する立場もあろう。建築を都市のコンテクストの中で正しく築き上げる事こそ、建築家としてのまちづくりだと言う人もいよう。都市計画家との共働により都市計画策定を建築家として行うべきという主張もあろう。
 一つ一つの建物をより建築的につくることに建築家が奔走している間に、環境共生、サステイナブル、情報公開、市民参加などがまちづくりのテーマになっていった。伝統的建築物の保存や自然環境保護などの場面では、建築家が加害者側とみなされ、市民や行政から追求される場面すらある。
 全ての建築家は「まちづくり」の良き実践者を自負していると思うが、今日的「まちづくり」の内容は大量多岐かつ専門化している上に、昨今は必ずしも「建築建設」至上ではない。そのため実際の設計場面で、地区計画やデザインガイドライン、緑化指針、景観条令、人にやさしいまちづくり条令、環境アセスなどの制約条件や行政指導に直面した時、はからずも「まちづくり」方針に敵対する立場にまわってしまう状況すら有り得る。歴史的建造物を撤去しての新築、自然環境の中での高層ホテル建設、臨海副都心建設等各種大規模都市開発に設計者としてかかわった場合など、建築主の意向と「まちづくり」方針との間で建築家としてどう振るまうかが問われることになるが、概して行政や市民の建築家への評価と期待は低いのが現実である。

3、都市計画との確執
 このようなまちづくりのルールやマニュアルは、建築家以外の行政官や専門家によって決められていることが多く、また市民参加プロセスも着実に浸透してきている。慢性的に建築家は都市計画を批判し、諸悪の根源は土木優先の土建国家にありとのサロン的主張から一歩も踏み出してはいない。様々な建築に対する規制に対しては、建築家は建築の自由の侵害だと都市計画を非難し、都市計画側は身勝手な建築家が多いから規制する必要があると決めつける。この不毛な論争の最大の被害者は市民である。この不幸な歴史の現実は、今日の我が国の都市環境、とりわけ悲惨過ぎる住宅地環境をみれば明らかである。都市の住民の過半がこうした住宅環境に甘んじている。大半が民間マンションに、メーカー住宅に、団地に、区画整理宅造地に、あるいは駅前の市街地再開発ビルに住んでいるのに、我が国の建築家は他人ごとであるかのように関与することを避けている。一部の建築ジャーナリズムもまったくその点については同罪で、一般社会から遊離した小さな世界で、一部の建築作家や評論家達との共生に甘んじている。
 このように一般の住宅地環境整備や公共住宅設計、広場公園や橋梁などのまちづくり分野の設計デザインに消極的なわが国の建築家像は、世界的に見ても奇異である。市民が最も必要としている良好な住宅環境づくりという「まちづくり」から建築家は逃避している。同様に中心市街地活性化、歴史文化遺産保存、都市計画マスタープランなど、多岐にわたる今日的「まちづくり」懸案に対しても建築家の影は薄いといわざるを得ない。都市プランナーやアーバンデザイナーとった立場のプロが活躍し、臨海副都心、首都機能移転、埼玉新都心、幕張副都心といったビッグプロジェクトを推進しているが、建築家の名は少なくとも表面的にはみかけられない。

4、「まちづくり」への参加
 今日的「まちづくり」が建設至上ではないことは、まさに新しい価値体系の登場である。「つくる」ことが社会的合意で「より上手につくる」ことが建築家の使命であった時代は終わりつつある。「まちづくり」の多くは自然を破壊してまで建築することを見合わせ、効率一辺倒の新築を踏み止まって既存建物の改修を検討し、景観を優先するために容積率を下げ、公共空間を確保するために広場を増やす。住民同士が協定して生け垣を揃え、屋根外壁の素材、色彩を協調する。防災への取り組みとしての密集市街地の再開発や都心の空洞化対策、商店街の活性化など、「まちづくり」のテーマはどんどん拡がっている。
 多くの自治体や商店街、市民団体などが、続々とこうした取り組みを始めているが、かれらの「まちづくり」に建築家の参加はきわめて少ない。設計する仕事がないから建築家が「まちづくり」に参加しないのだとしたら、なんと悲しいことだろうか。「まちづくり」に専門家として参加するとなると、確かにある程度の専門知識が要求されるのも事実だ。市民も相当勉強している今日、専門外だからと建築家が敬遠しているとしたらこれもまた情けない。
 昨年から本部に「都市づくりまちづくり等推進会議」が発足し、「まちづくり」に関する討議をはじめたところである。関東甲信越支部に7年ほど前から都市デザインを考えるグループが発足し、昨年度から正式な部会として活発に活動している。都市分野の諸団体や行政、そして市民団体などとの交流から、まちづくりにおける建築家の役割が様々な形で議論されている。
 機関誌JIA NEWSがはじめて「都市」に関する特集を企画することになった。まず「建築家とまちづくり」の在り様、可能性と限界、あるいは役割分担などについて、様々な立場の建築家のご意見を述べていただくことから始めたい。

参考文献:
1、建築ジャーナル1995年11月号特集『都市と建築の関係史』
「相克を超えて 戦後50年-都市と建築の関係史」
2、同誌12月号『続・都市と建築の関係史』
 座談会「建築vs都市計画」倉田直道(司会)、土田旭、難波和彦