1.集合住宅設計の変遷
景観法が施行され、ようやく日本でも景観を良くすることの価値が認められるようになりつつある。私はかねてより「住宅を美しくすることこそが街を美しくする」と主張してきた。なぜなら街の圧倒的過半は住宅という建物で出来ているからである。とりわけ規模が大きい集合住宅の美しさが問われる。しかるに集合住宅(マンション)設計は、多くの建築家にとって主戦場ではなかった。
軍艦島から公団へ
わが国の集合住宅の歴史は浅い。我が国最初の鉄筋コンクリート造マンションは、長崎県軍艦島の30号棟とされ、1916年の竣工。同潤会の中之郷アパートの竣工が1926年だからわずか80年余。その後住宅公団(現UR都市機構)のいわゆる「団地」の時代を経て、ようやく70年代から民間デベロッパーの分譲マンションが始まり、そして現在のマンションブームへと進んだ。その流れに沿って、設計事務所の集合住宅設計への取り組みも大きく変化してきた。
公団のニュータウン
初期の集合住宅は公共公営に限定されていたこともあり、住宅公団など公的セクターを中心に様々な研究が行われた。住宅性能に関する研究開発はもちろん、コミュニティ形成や市街地環境整備など広範な分野に関する研究でも多くの成果をもたらし、多摩ニュータウンをはじめとする「新市街地」が大量に建設されてきた。
こうしたなか、住宅の大量供給だけではなく良好な住宅地環境を実現しようとする動きも多く見られた。60年代からは建築家の試みも多くみられ、大高正人の広島基町団地、大谷幸夫の川崎川原町団地などが注目を浴びた。
集合住宅研究会
建築家市浦健(1904~1981)は1972年に「集合住宅研究会」を組織し、建築家や計画設計実務集団をとりまとめ、住宅公団との共同研究など多くの成果を残した。同研究会は現在も活動をつづけ2010年には、創立37年を迎え第300回記念研究会を行っている。
民間マンション
民間でも集合住宅が事業対象となりはじめ、東急不動産が建築家内井昭蔵に託した桜台コートヴィレッジ(1969年竣工)が建築界に旋風をまきおこした。1980年以降は、超高層集合住宅が登場し、東京湾岸部開発にみられるように巨大な経済の波に乗って、膨大な数の、かつ多様な集合住宅の建設ラッシュが続く。
美しい街並み
この一連の集合住宅計画史にあって、残念ながら「景観の質」すなわち「美しいまち」が主題と意識されたことはほとんど無かったのではないか。建築家磯崎新のプロデュースで評判になったネクサスワールドは建築雑誌では大きく取り上げられたとはいえ、建築美の範疇での議論であって、美しいまちの議論ではなかった。内井昭蔵がデザイン調整をしたことで注目された多摩ニュータウン南大沢ベルコリーヌでの試みは、その後の集合住宅開発に大きな影響を残すことになる。従来型団地開発から脱皮し、複数の建築家たちを束ねて建築群としての景観の魅力づけが追求されたからである。その延長線上に幕張ベイタウンが位置づけられる。住宅地計画論やニュータウン論は他に譲るとして、ここでは建築設計者として参加した立場から、幕張ベイタウンを考えてみようと思う。
2.幕張ベイタウンの設計体制
民間の集合住宅事業での設計業務には、いくつかの段階があり、様々な役割分担がなされている。風上の業務が企画・計画(俗にいうボリュームスタディなど)とすれば、風下の業務が実施設計・監理であり、脇で併走するのがデザイン業務である。また、意匠とエンジニアリング、共用部と専用部、建築確認申請と実施設計など、業務の性格や専門性によって役割を分担することも多い。
幕張の設計システム
集合住宅設計でうあ事業主の工事発注に関する立場の違いから、ふたつの設計方式が存在する。専業の設計事務所による設計施工分離方式とゼネコンによる設計施工一貫方式である。専業の設計事務所は、意匠・構造・設備・行政対応など全ての役割を担える大手組織事務所と、意匠設計を中心とするアトリエ系と称される中小規模の建築家が主宰する設計事務所とに分かれる。また特殊高度化した集合住宅設計に特化した事務所も多く存在し、それらが様々な形で補完しあって実際の設計業務が行われている。 しかし幕張ベイタウンの設計業務はかなり特殊な方法で行われている。最大の特殊性は計画設計調整者の存在であろう。通常は発注者であるデベロッパーとのやりとりで設計を進めていくが、幕張では計画設計調整者の権限が強く、とくに都市デザインに関する事項であれば調整者が発注者よりも上位の決定権を有しているところが一般の場合と大きく異なる。そして設計者選定も計画設計調整者の大きな権限であることも稀有なことといえる。
ブロックアーキテクト
幕張ベイタウンの事業は街区単位で行われ、その街区が位置する「地区」ごとに決められた計画設計調整者のもとで具体的な設計デザインがなされる。そこで複数の設計者が分担設計するひとつの街区をまとめる役割のブロックアーキテクトが想定されていた。私が最初にかかわったH-1街区(公園東の街)では、計画設計調整者の土田旭氏からブロックアーキテクトを務めるよう指示をいただき着手したが、その後土田氏自らがブロックを取りまとめる事が効率的であることから、以降、土田旭氏がブロックアーキテクトを兼ねる形で最後まで進められた。当初構想からのこの修正は、他の事業体でも同様となり、計画設計調整者とブロックアーキテクトとは実質おなじ役割になった。
デザイナーズコラボ
中層街区よりスケールが大きく都市デザイン的要素が多いH-1街区では、土田氏の強いリーダーシップにより、三人の設計者(サブアーキテクト)とは別に、街区全体の外部共用空間に三名の外部デザイナーが招かれた。上山良子(ランドスケープデザイン)、近田玲子(照明デザイン)、吉田愼悟(色彩デザイン)の各氏である。ひとつの街区を複数の設計者が分担設計しそれぞれの個性を表現する一方、街区全体の共用空間をこれらの環境デザイナーが相互にコラボレーションして、ひとつのデザインとして纏め上げていくという手法が、H-1街区に続くSH-3街区でも続けられた。土田旭氏が幕張ベイタウンで展開した都市デザイン実践手法の大きな特徴のひとつである。
ゼネコン分業
一方、事業者にとって幕張ベイタウンは住宅の販売事業であり、分譲する住宅の商品としての品質保証は絶対であり、設計責任と施工責任の整理が当初からの課題であった。 当初MIC2001グループの施工者は大林組であり、設計段階から主として構造・設備ならびに工事費VEの面から設計にも関与する方式がとられた。この方法で進められたのが、初期のM2―5、M7―2中層街区であり、高層街区H―1でも同様の体制で事業は進められた。
このころから分譲マンション業界では製造物責任法(PL法1995年)を受けた設計瑕疵への責任対応力重視の立場から、建設会社(ゼネコン)の設計施工方式が好まれる動きがあり、幕張ベイタウンにおいても超高層街区(SH-3)着手時に、この点を巡って議論が起きた。他の事業者グループにあってはすでに、法的な設計者をゼネコン設計部とし、いわゆる「設計者」はデザインに限定して関与する、いわゆる「デザイン監修」方式が採用されることが多くなってきていた。 しかし当グループでは土田氏の「デザイナーが設計責任を負うべき」という主張を重んじて、「法的設計責任をゼネコン設計部と我々設計者とが契約において役割分担する」ことになった。この方式で実施されたのが、SH-3街区(グランエクシア、グランエクシブ、ゼネコンは淺沼組)とM-9街区(19番街、ゼネコンは前田建設工業)である。
住戸プラン分業
幕張ベイタウンの設計体制のもうひとつの特徴が、住戸の専用部の設計分担についてである。集合住宅の設計の部位を共用部と専用部とに分けるとすれば、当然その両方が設計対象であるわけだが、幕張ベイタウンの「住宅で街をつくる」という思想からは、外観デザインや共用部デザインが重要視される傾向にある。これらはデザイン調整会議での承認事項でもあり、計画設計調整者である土田氏の主導で進められることになる。一方、各住戸の間取りや内装などに関しては、調整会議の審議対象からはずれ、事業者の企画を優先して設計すれば良いという流れになっていった。
前半の街区、M2-5、M7-2、H―1までは、設計者が全ての住戸専用部についても意匠の設計作業を担当した。後半のSH-3街区とM-9街区では、住戸専用部のうち外観や街並み形成上重要と思われる「特殊住戸」のみを設計者が担当し、その他は事業者とゼネコン設計部が設計をとりまとめる方式が採用された。
デザイン監修
近年、分譲マンション設計では「デザイン監修」方式が定着してきている。この方式のいわば先駆けが幕張ベイタウンであったということもできる。MIC2001グループの経緯は以上に述べたとおりであるが、伊藤忠グループにおけるフジタ設計部、三井グループにおける鹿島設計部など、他のグループにおいてもかなり初期の段階からゼネコン設計部が法的設計者として機能し、いわゆるデザイナーアーキテクトはデザイン監修者として参画する手法が定番化し、それが幕張以外の様々なプロジェクトにも採用されていったのである。
野村不動産でも幕張のこの方式がその他事業にも展開され、千鳥町D-tria、下丸子シェルズガーデン、大泉学園プラウドシティ(以上南條設計室監修)や、武蔵境デライトシティ、プラウドシティ梅島(以上SKM監修)など、多くの事業で建築家のデザイン監修+ゼネコン設計部という組み合わせが定着していった。
3.「まち」という商品づくり
ガイドライン
「住宅で街をつくる」が幕張ベイタウン計画のテーマであるとき、住宅分譲事業者にとってのテーマは「まちという商品が売れるか」であったとも言える。個々の商品は各社ブランドで販売されるわけで、幕張の場合はその商品が幕張ベイタウンという「まち」に所属することで「付加価値」が生じるかどうかがポイントとなる。
付加価値のひとつが「ガイドライン」である。幕張ベイタウンが一般の分譲マンションと根本的に異なるのは、この「ガイドライン」の存在であり、全体が「まち」である仕掛け仕組みの全てがこのガイドラインにしたためられている。
沿道型
「まち」とは道路である。道路とは建物と建物で形づくられる公共空間である。古来、東西を問わず都市はこの考え方でつくられてきた。いわゆる沿道型建築である。ヨーロッパの都市はもちろん、京都も江戸も、中国の諸都市も、みな沿道型建築でつくられてきたと言える。近代になると自動車の登場で道路は一変する。とくにわが国の郊外型住宅地(団地)では、日当たり優先南向き住棟が優先されいわゆる平行配置が主流となり、沿道型建築物は消えてしまった。
広大なオープンスペース、広場・緑地は快適な空間ではあるが、街歩きの楽しみを奪ってしまった。道路が駐車場で占拠されると、もはや道路は人間を排除する空間へと変貌してしまった。この流れを逆転し、ふたたび道路を人間のための、人間が佇み回遊する都市の仕掛け空間へと変換する、それが幕張ベイタウンの挑戦である。
中庭
街路が格子状に整然と整備された幕張ベイタウンに沿道型住棟を配すると、結果として「ロの字」中庭付き住棟が生まれる。これが幕張ベイタウン最大の特徴「パティオス」である。パティオスが評判となり、居住環境を担保する空間として、またコミュニティ形成の仕掛けとして、パティオスはわが国の集合住宅設計に大きく足跡をきざみその価値を確立した。
初期のパティオスではガイドラインの規定どおり駐車場は地下に置かれ、人工地盤上に豊かな緑の空間が実現していたが、工事費削減のためSH-3街区以降は中庭の一部に駐車施設が露出する状況となっている。 まちづくりの視点からは、これら中庭は街全体の公共空間ネットワークの一部として位置づけられている。最初のM2-5街区でも、H―1街区でも、中庭の開放議論が計画段階では盛んであったが、結果的にすべての中庭が開放されてはいない。逆に、居住者専用の付加価値空間として高く評価されており、悪化する治安対策でセキュリティを優先する流れから、ますます幕張の中庭=パティオは街区住民だけの専用空間となっている。
資産価値
幕張のみならず、インターネット上でのマンション居住者間の様々な情報交換が浸透し、過熱すらしている。事業者の経営情報、管理会社の評判、不動産評価や風評、欠陥住宅の告発など多岐におよぶ。そんな中で中古価格の情報も多く、どの街区のどのマンションが築何年でいくらで取引されているかが直ぐわかるといわれている。そこで幕張ベイタウンの評価は高く、中古住宅価格は周辺類似案件より高いとされる。
個々の住戸の性能はおそらく同等であるはずであり、この評価の差は幕張ベイタウンの「まち」の魅力に支えられているとすれば、「まち」が商品価値に寄与する新しい潮流が現実化しているとも言えよう。
コミュニティ
中庭パティオスの計画・デザインは、居住者のコミュニティ活動の場としてのソフト・ハードにまたがるデザインである。集会室と中庭とを関連付けた空間デザインで、パーティやガーデニングなどへの住民参加を誘発し、居住者に使いこなしてもらう様々な仕掛けが盛り込まれている。その結果、各街区の管理組合が充実し、かつベイタウン全体の住民組織である自治会連合会が活発な活動を展開している。これらが「まち」という商品づくりのひとつの成果なのであろう。
4.グランパティオス公園東の街(H-1①街区)
チーム編成
H―1街区は20階建ての高層が予定され工期が長いことから、第一期のM2-5街区と同時に、すなわち幕張ベイタウン計画のスタートと同時に開始された。私は土田氏に招かれ幕張ベイタウンという事業を知り、最初の高層街区であるH―1街区のブロックアーキテクトとして参加する機会を得たのだった。1992年のことである。設計者としては、当初より日建設計を補佐する役割で参加されていた日建ハウジングシステムの渋田氏に加え、既知建築家であるSKMの柴田氏を招聘し、計三名の設計者で取り組むこととなった。
施工は大林組で決定していたから、当初から工事担当も古川所長に確定しており、構造設計と設備設計では大林組設計部の協力体制のもとで、設計が進められることになった。 まず、日本では稀有であった中庭囲い込み型の集合住宅市街地を研究するため、土田氏を団長に事業者、設計者、施工者が参加してヨーロッパ研修を行った。参加した設計者は、M2-5街区担当の山梨氏、H-1街区担当の渋田氏、それと私の三名であった。
密度との戦い
当初は私がブロックアーキテクト候補であったことから先行して作業にはいり、まずはガイドラインどおりの高層街区の典型プランを検討した。外周部には隣接する中層街区と同じ中層棟を道路沿いに配置し、中庭中央に搭状の高層棟を置くガイドラインどおりの配置は、実際には限りなく困難であることが判明した。
外周部を中層にして事業上求められる住戸密度を中央の高層棟で達成するためには、高層棟基準階を太らせねばならないが、それでは外周部各住戸との隣棟間隔が確保できないことが理由である。結果的には中央には一切建物をつくらず、全ての住戸を外周部に配することになり、6~20階建ての板状の高層棟計4棟で構成することになったのであった。
結果的には他の事業者の街区もひとしくこの変更がなされ、中央に塔状の高層棟を配置した高層街区はどこにも実現しなかった。当時、ガイドラインの方針と大きくことなるこうした変更を「ガイドライン破り」などと皮肉っていたことを思い出す。
やがて先行するM2-5街区が着工したが、そのころから市況が思わしくなく385戸もの大量供給はリスクが多すぎるとの判断により、急遽M7-2街区を先行しH-1街区の着工は一年以上延期された結果、様々な可能性について検証する十分な時間がとれるようになったのであった。
法規との戦い
高層街区では建築基準法の法解釈においても様々な選択肢があり、行政協議を行いながら種々検討された。最大の課題は、建築基準法上一棟扱いとするか、分棟として扱い一団地による総合的設計とするかであったが、結果的には一棟扱いとすることに落ち着いた。 中庭の駐車場の扱いも複雑で、建築基準法上は一棟扱いとしたうえで消防法上別棟扱いとすることになり、その結果、駐車場棟と各棟との連絡通路の屋根を一部開放することが義務付けられた。その結果、そこを雨天時に通過すると雨に濡れて不都合であるとのクレームを後に受けることになる。築15年にならんとする今日、この問題は未解決であり、今尚雨天時の通行で不自由をおかけしているのである。
その他、大規模集合住宅の設計に関する建築基準法や消防法他の法解釈上の諸課題も多く、ましてや幕張ベイタウンの目指す沿道型住宅やパティオスを演出する様々なアイデアを実現するためには、乗り越えなければならない基準も多く、役所を駆けずり回りながら法的対応に翻弄される場面も多かった。
ゼネコンとの軋轢
ガイドラインにもとづき、かつ都市デザイン面でも多くの付加価値を実現する課題をもって取り組んだ幕張ベイタウン設計では、自ずとコスト管理も複雑化しており、工事費の確定には多くの調整が必要であった。計画当初より施工者大林組が参加し、構造や設備コストの低減や、中庭駐車場の躯体コストや造成工事などに関する検証を重ねていったにもかかわらず、最終的なコスト調整では多くの設計変更を余儀なくされたのであった。
この過程では、事業上の建設コストを低減する立場と、まちづくり上でガイドラインを励行しようとする立場がある種ぶつかりあい、いくつかの軋轢が生じたが、幕張ベイタウンプロジェクトのある種の特殊性が理解され、最終的に信頼関係を築くことができ、良好な現場が維持され見事に竣工できたのは何よりであった。
こうした体験を通じて、その後の各街区や他地区での計画における設計者と施工者の役割分担のあり方が模索され、デザイン監修という新しい方式が確立されていくのである。
コラボレーション
上山良子さんの参加により、ランドスケープのデザインコンセプトを全員で共有し、各分野のデザインに反映させる方法がH-1街区で実践された。幕張はかつて海浜であった記憶の証として、アンモナイトのイメージをモチーフとしたオブジェ空間が中庭に登場し、建築やサイン計画にもそれと同じモチーフを展開していった。私が担当した四番館のプロムナードに面した正面壁面オブジェにも、アンモナイトの彫金オブジェを掲げるにいたった。 近田玲子さんの参加も各住棟の共用空間の照明デザインについて、多くの協働が実現した。設計三者のそれぞれの特徴をつかみ、照明デザインを実現していただいた。私の担当した二番館のピロティでは、二層吹き抜けの大空間にはアッパーライトの豪快な照明を、中庭の楕円形の集会室にはシンボリックな行灯状照明を提案いただいた。
三人の設計者による計四棟の異なる住棟を、ひとつの街区にまとめあげるための色彩デザインは、吉田愼悟氏の参加で環境色彩デザインとしての奥深いものとなった。海浜公園に面したベイタウンの玄関口にあたるH-1街区では、YR系の落ち着いた色彩で統一された存在感のある、かつ年月に耐える色彩が実現したと思う。
幕張ベイタウンでのこれら環境デザイナー達とのコラボレーションは、私のその後の建築設計に確実に影響を与え、同様の協働を多くの場面で重ねて行う契機となったのである。
息抜きのデザイン
「住宅でまちをつくる」という大きな目的にたちむかうなかで、いくつかの「遊び」も実現させていただいた。二番館の大ピロティは西隣りの「公園西の街」の中庭との視覚的連続性を確保するための重要な空間である。そのピロティ両側の大壁面に準備したコンクリート打放し面には、かねてより壁画風レリーフを描こうと思っていた。現場段階で所長の理解を得て、設計者である私自身が足場に乗り、チョークで原寸デッサンをしたため、その線画をコンクリート小叩き仕上げで職人さんに壁画風に仕上げていただいた。
四番館はベイタウンの玄関口に位置し、デッキ経由で多くの住民が駅方向から渡って入街してくるときの目線に飛び込む位置にポルティコの壁面が立ち並ぶ。多くの子供たちが生活するこの街に、心に訴える何かを添えて良質のデザートのような「締め」をしてみたいと思った。もともとアンモナイトのモニュメントをお願いしていた友人の彫金家である赤川政由氏に相談し、「笛吹き女児とそれに聞き入る小鳥たち」をポルティコ上部パラペットに並べて置いてみた。現場固定の当日は多くの子供たちが熱狂してくれた。いまもこの街にデッキを渡って入る人々の目に最初に飛び込んでくる「メルヘンの世界」となっている。
公園東の街では中庭の集会室も担当させていただいた。楕円形の本体に直線の壁が交差するデザインであるが、その壁の一部にバーベキューコーナーを仕込んでみた。私が滞在したブラジルの代表的料理である「シュラスコ」コーナーである。この使い方をご教示するため、初年の夏のパーティで自ら大量の生牛肉を持ち込み、ブラジル風炭火焼肉をご披露した。その後もこの「南條シュラスコ」は住民の皆様に引き継がれ、今日でも夏の中庭パーティの名物になっている。
我々設計者がこのように居住者の皆さんと竣工後もお付き合いをすることは、非常に稀である。単なる建物設計ではなく「まち」を設計した、言い換えればコミュニティを設計したことの成果なのかもしれない。
こうした住民の皆さんとの交流は、他街区でも実現し、2010年には自治会連合会イベントにも講師として参加する機会を与えられたが、そのきっかけがこの「公園東の街」であった。
設計から監修へ
高層街区(H-1)を終え超高層街区(SH-3)を着手するにあたり、設計契約上の状況の変化がおきていた。デベロッパーサイドの理由でゼネコンによる設計施工発注方式への変換が求められたからである。結局、我々設計者は外観及び外部共用部分の意匠設計および特殊住戸の意匠設計のみに限定し、その他はゼネコン設計部が担当するという役割分担受注におちついた。
そこで、ゼネコン設計部と設計事務所各社との設計共同体(JV)をつくり契約し、代表企業は土田氏の都市環境研究所とすることとなった。
設計者はH-1街区に続き、私と柴田氏が継続することとなったが、規模も大きな当街区では、三人目の設計者として大林組設計部の設計担当者を迎えることでスタートしたが、途中で大林組が施工者から外れることとなり、三人目の設計者も不在となり、施工者は淺沼組に決定したのであった。
結局、グランエクシアでは柴田氏と私の二人が設計者として残り、大林組が設計担当であった一番館の意匠デザインは柴田氏に引き継がれたのであった。
一団地認定と「たすきがけ」
超高層街区(SH-3街区)は、MIC2001グループと伊藤忠グループという二つの事業体が四つの事業区域を開発する大街区であり、しかも各事業体が隣接することなくエックス字状(たすきがけ)に担当する特殊な街区である。これまでの一街区一棟扱いではなく、一団地認定による段階的整備を前提とする複雑な街区であった。全体の一団地認定業務は都市環境研究所が代表して行っている。 全体がひとつの一団地認定の対象であり、二事業者がたすきがけ状に分担したことで、伊藤忠グループの各デザイナーによる個性的なデザインとも競演し、変化に富んだ街区を完成させている。ここでもMIC2001グループ担当部分では環境デザインの上山、近田、吉田各氏とのコラボレーションが実現した。
湾曲道路へのこだわり
グランエクシアはベイタウンには珍しく湾曲する道路に面した街区である。南のプロムナード交差点方向から見るとグランエクシア壁面はちょうど富士見通りのアイストップになっており、当初よりこの部分の扱いが注目されていた。
通常のマンション計画であれば、北側の開放廊下でありデザイン的にさほど特徴を出せる箇所ではないのだが、計画設計調整者の土田氏の要求は限りなく都市デザイン的に非常に高いものであった。
沿道型建築でまちをつくるベイタウンにあって、建物は道路に沿って建てられるべきであり、大きく湾曲するこの部分でも直線は許されなかった。カーブした建物では住宅棟としての難しさもあるので、玄関棟にすることを思いつき、三層吹き抜けのガラス棟を提案した。さらに三番館の一部住戸のアネックスルームやゲストルーム、駐車場などをこの三層のカーブ道路に沿った建物にはめ込むことで、つじつまを合わせた。こうしてダークグリーン色の格子状三層建物による街並み景観が完成した。
駐車場との戦い
深刻化する工事費の高騰と頭打ち分譲価格の影響で、幕張ベイタウンのガイドラインの重要な基準をも見送らざるを得ない状況になりつつあった。最も顕著なのが駐車場である。ガイドラインでは駐車場を露出することは許されず、ましてや外周道路に直接顔をだす駐車場などもってのほかとされていたのだが、この頃になると比較的安価で効率も良いとされるピット式三段駐車機械や、様々な形式のパズル式駐車機械が露出して置かれることも黙認されるようになっていた。
当然、コストやメンテナンスといった制約条件の中で、景観上のデザイン処理は検討されたのだが、決定的解決策は見当たらなかった。グランエクシアでは縦列横行昇降機械の屋上に広場をつくり、緑を絡ませる方法が、グランアクシブではピット式三段機械に緑化ネットを併設する方法が採用された。他社の同様の取組みとの比較では「善戦」していると言いたいところだが、抜本的解決とはなっていないことは認めざるを得ない。初期の中層街区では地下自走式駐車場とその上の人工地盤中庭がつくられていたことを思うと、時代の流れとはいえ複雑な思いではある。
三人目の設計者
公園東の街以来、設計担当を分かち合ってきた柴田氏に加えて、グランアクシブでは三人目の設計者に既知の久間常生氏を迎えることになった。建築家協会の活動でも親しい氏の登場はいろいろな意味で新鮮であった。とくに氏のコンクリート打放し仕上げへのこだわりや、きめ細かなディテール、素材感など、コラボレーションの正しさや楽しさを経験できたことは収穫であり、複数建築家による競演を是としたベイタウン方式の評価できる側面である。
楽しみのデザイン
三人の設計者がそれぞれ三棟を担当したグランアクシブでは、各棟に特徴のある「広場」がデザインされた。パティオスとはいえ、当街区は超高層街区であり先述のとおり二つの事業体による四つの街区という幕張ベイタウンにあっていわば変則街区であり、中高層街区のように四角く明確な中庭が存在しない。
そこで、一番館附属の共通エントランスから、二番館、三番館へと移動する動線沿いに、三つの広場を配し、それぞれに明確な特徴を持たせた。第一の広場は「デッキ広場」で柴田氏担当、第二の広場は「芝の広場」で久間氏担当、そして最後の広場は「石の広場」で私担当。
デッキ広場は子供たちと母親達の憩いの場、芝の広場は壁面に飾られたシンボルの「梟」像と階段踊り場に配された三日月群が話題の場、最後の石の広場は公園東の街につづく赤川作品の蝶々と虫の花園、とそれぞれに住民に楽しんでいただいている。 グランアクシブの集会室(柴田氏担当)は、外部に開かれたキッチンスタジオが特徴。貫禄のついてきた壁面緑化も趣きを与え、楽しいコミュニティ空間となっているのは公園東の街の延長ともいえ「楽しみのコミュニティ形成」の仕掛けでもある。
6.パティオス19番街(M−9街区)
事業コンペとチーム編成
当初の事業予定はグランアクシブをもって終了とされていたが、土地利用が未定であったいくつかの街区に対して、事業希望者を選定する事業コンペが行われ、MIC2001グループは中層街区(M9)と高層街区(H8)とにエントリーすることになり、私と柴田氏とで作業を分担した。結果的には紆余曲折を経て、MIC2001グループはM9街区での事業参加が認められ、幕張ベイタウン最後の中層街区パティオス19番街に取り組むことになった。
中層街区で計画戸数150戸と比較的小規模であることから、設計者は私と柴田氏の二名となり、かつ環境デザイナーの参加も見合わせることになった。外周部四立面に変化を与えるために、各事務所の担当者(野呂、三宅)も部分的にデザインを担当することで、四つの人格の表情が街に登場するように配慮された。
コスト戦争と設計契約
北京オリンピック特需の影響もあり、益々工事費高騰への対策が深刻化したため、事業者は基本設計段階で複数ゼネコンからの概算での入札を行い、前田建設工業が施工者として確定した。 ただちに施工者を含めての設計調整が進められたが、前田建設工業では工事コスト削減策としてPC(無足場)工法の採用を前提としており、PCの特性を反映した工事費削減を視野に入れたデザインが追求されることになった。
この方式での設計体制にも微妙な変化がみられ、我々デザインチームの担当業務は外観デザインと共用部設計と一部の特殊住戸に限られ、かつ設計共同体ではなく、事業者は前田建設工業と設計施工契約し、我々設計者は施工者からの業務発注を受けて参加することとなった。この業務発注契約では、我々設計者の担当業務と責任が明記され、かつ事業者が契約にも第三者として登場することになった。
初期の設計者単独での設計監理契約からはじまり、ゼネコンとの設計共同体に移行し、最後はゼネコン発注での設計協力となったわけであるが、まさにこの間のマンション設計業界の変遷を示す経緯であったともいえる。
最後の中層パティオス
工事着工後にいわゆるリーマンショックが起き、マンションの販売に関してもかなり状況が悪化した。加えて幕張ベイタウンでも海岸には近が海浜幕張駅からは最も遠隔地というハンディもあり、同時に三井グループの高層街区との競合もあることから、売れ行きが心配された。
対策としては、幕張ベイタウン最後の中層街区であり、パティオスというブランドの特徴を備え持つ屈指かつ最後の商品であることを強くアピールすることになった。
これまでの中層パティオス街区が、やや西欧都市志向であったのではないか、パティオスの定着とともに我々日本人の本物の幕張ベイタウン住宅を完成させようではないか、という目標をかかげデザインワークが進められた。
まず、沿道型住棟の徹底をはかり、囲い込み型街区を実現するのだが、これまでの中層街区よりも外周道路から視覚的につながった開かれた中庭(パティオ)を目指した。また北側道路沿いの開放片廊下面の外観デザインについては、沿道型の最重要課題としてとりくみ、単調さを排除し重厚かつ美しい街路空間を実現した。
中庭は柴田氏が担当し、南半分には十分な緑を配した緻密な庭園デザインを実現するとともに、残り半分については自走式駐車場に高木を分植し、みどりに覆われた「森の駐車場」を計画した。 公園東の街にはじまり足掛け15年間に及ぶ幕張ベイタウンパティオス設計の集大成として、私も柴田氏も事務所を上げての取組みで注力したつもりである。各立面の外観デザインでの競演にくわえ、中庭の造園植栽デザインと公園口エントランスは柴田氏が担当し、メインエントランスと集会室、ゲストルームのデザインは私が担当した。
私が担当したラウンジ壁にはアーティスト五十嵐威暢氏の彫刻を使わせていただいき、私の幕張ベイタウン一連の設計担当空間の最終デザインを完成させることができた。
7.集合住宅の展望と建築家の役割
日本の住宅は高価すぎる
わが国の住宅の価格は高すぎる。その最大の理由は余りにも高い土地代とされる。故に高層・高密化が正当化され、超高層タワーが期待視される。幕張ベイタウンでは中層、高層、超高層の三種の住宅街区が計画的に配置され、容積率も300%にせまる高密度、しかも独特の借地権方式で土地代を薄めているにもかかわらず、分譲価格は一般の分譲価格と大差はない。
わが国の集合住宅の将来を考えるとき、都市部で土地の価格が大幅に下落しない限り、集合住宅の高密度化、高層化は不可避である。経済学の立場からは経済再建の切り札として土地価格の上昇を是とする意見もあることからすれば、貴重な土地資源を共有化する集合住宅への期待は今後も高まるはずだし、量的には飽和状態とされるわが国の住宅も広さや品質の面での問題も多いことから、需要も長期的に持続すると私は予測する。
市計画が機能していない 幕張ベイタウンは計画的整備により良好な市街地形成が実現し、また都市空間や建築のデザインが不動産価値を支えることを具体的に示した稀有な例ともいえる。だが一般の既成市街地では建築基準法の規制どおりに建てたらこうなると言わんばかりの集合住宅が乱立している。
そこには良好な市街地形成も美しい景観の実現も期待できない。
本来、集合住宅であればこそ、貴重な土地を有効に活用し、集合たるメリットを享受し、もって快適な都市居住に資するものでなくてはならないはずである。しかるに、一般的には集合住宅建設は周辺住民からは敵視され、市街地を乱す犯人とされるのは何故か。マスコミ世論的には、まずはデベロッパーやゼネコンの姿勢が批判され、設計者も共犯者とされることが多いのは何故か。
この悲しい現実の真の犯人は、機能停止状態にある現行都市計画であると私は思う。現行法における用途地域制を基とする形態規制では、集合体としての市街地、あるいは街区全体を空間的に、また景観的に、どのように誘導すべきといったメッセージは全く示されておらず、個々の敷地ごとの建築行為に形態規制を課すだけなのだから、集合体としての秩序など生まれるはずがない。 既成の法体系とは異次元にあり、市街地全体を強力なシステムで誘導し完成しつつあるのが、まさに幕張ベイタウンなのであり、ここでの「事実」を正しく評価総括し、一般の市街地に対しての法制度改革への貴重な参考体験としなければならない。
基準法改正と消費者保護
度重なる建築基準法の改定や各自治体の条例制定を受け、またユーザーの品質管理への要求度が飛躍的に高くなり、PL法施行 によりデベロッパー責任やゼネコン責任が厳しく問われることになり、設計事務所への設計精度の要求水準も非常に高度なものとなってきた。 消費者のあらゆる要求に対し、他社との競合下にあって無制限に対応しようとする業界体質からか、消費者対応に傾注されるエネルギーは過剰である。幕張ベイタウンは「集合住宅の真の価値」を判断する上で、住宅地環境や街並み景観、そして建築・都市デザインなどの重要性を印象づけた事例といえよう。第一期の住宅が20年近く経過し、中古市場で幕張ベイタウン住宅のどこが評価されているかをみれば明らかである。竣工時にあれほどまでに消費者がこだわった設備仕様や仕上げのゴージャスさでは決してないはずだ。敢えて発言するが、建築という商品の売買にあたっては「売手責任」と「買手自己責任」をリセット再整理する必要があると私は思う。そうでないと、いたずらに法体系ばかりが複雑化し、不毛なエネルギーが浪費され、しかもその経費は結局消費者にふりかかっているのだ。快適な住宅、美しい街並みを実現するための法および制度の抜本的な改革が望まれる。
設計業務の現場
幕張ベイタウンでは実に多くに設計者が参加することになった。10周年記念誌に登場する設計者数は数十名に及ぶ。その多くはアトリエ系と呼ばれる小規模な設計デザイン事務所で活動する建築家達であった。これら建築家達に大手組織設計事務所やゼネコン設計部も参加し、参加形態や役割分担も事業グループによって異なり、また時代とともに変化もしていった。 幕張から離れて一般的な設計事務所のおかれた状況について触れてみたい。法改正や消費者意識の高まりに対応するために、設計事務所は専門的かつ難易度の高い特殊能力が求められることになり、そのハードルを越えたマンション設計専門事務所を定着させて今日に到っている。いわゆる用地取得(多くは入札)のための企画設計(ボリューム検討と呼 ばれる)に始まり、事業性や建設コストを優先せざるを得ない環境の中で設計作業は進む。その間デザイン性の追及は残念ながら後回しにされる場面が多い。担当者のこだわり、気力体力がかろうじてそれ(デザイン性追求)を守っている状況と言える。加えて設計業界自体が数年来慢性的に不況下にある。
デザイン分業
そんな中、一部ではあるがデザインの良し悪しが売れ行きを左右すると期待される場面も増えてきた。デザイン監修という建築家にとって新しい参加形態の登場である。そして幕張ベイタウンがデザイン監修のはしりであるとも申し上げた。これはデベロッパーによる設計者の使い分けであり、設計業務の役割分担である。
消費者が求める設計性能(構造、設備、仕上げ)の要求に応える技術設計力と瑕疵への保証力をゼネコンに求め、街並み・景観・都市デザイン・商品話題性などに応えるデザイン力をデザイナーアーキテクトに求める方式である。幕張以外でもデザイン監修方式はかなり定着してきた。基準法的設計責任とデザイン責任とを分離する傾向が定着しつつある。 ちなみに、MIC2001グループでの基準法上の設計名義は、M2-5、M7-2、H-1各街区までは設計事務所であったが、SH-3街区からはゼネコンに移行したことは前述のとおりである。
建築家の役割
わが国の集合住宅の歴史は浅いことは冒頭にふれたが、都市居住をめぐる社会環境は大きく変わりつつある。サステイナブルな建築や都市への再編は世界的課題であり、急激な少子高齢化社会への対応はわが国の緊急課題である。加えて、景観法に代表される美しい都市景観形成も先進国としての深刻な課題になりつつある。
より安全安心で快適な建物をより安価に建設し、かつ長期にわたって健全に維持管理することも強く求められてきており、事実、それらへの技術革新も顕著である。集合住宅という都市居住形態は、欧米先進国において既に確立されており、わが国においても以上の課題への処方箋として最も期待される住居形態であることは間違いない。
幕張ベイタウンは、行政(企業庁)、事業者(デベロッパー)、計画設計者、施工者(ゼネコン)、そして市民住民らが、複雑高度に作用しあった壮大な実験であった。これからは住民による自治が本格的に機能する段階に進みつつある。
他地区においても幕張ベイタウンの経験を踏まえた様々な取り組みが進みつつある。計画設計の多くの場面においても様々な分業が行われると思われるが、建築家の見識が様々な局面において、多様な視点をもって、そして都市・建築のデザイン統括者として重要な責任を果たさなければならない。